表態文字について feat 印刷の余白Lab. on filter fengfeeldesign

元ソースはこちらです。
http://twitter.com/kami_labo/status/12213628517


今回、書体開発をする上で、 まったくからしてと言って良い程に目線の位置がこの「表態文字」と一緒だったので、 この視点で色々探っていたら、 何やら新しい発見が幾つかあったというのもあり、 研究の余波という感じでここに書き残す事にします。 まず、「表態文字」とは、 少し違う視点で見てみたんだけど、 例えば「さらさら」は「左良左良(他にもあります)」と書く。 本来、漢字である表意文字を表音文字にしたのが仮名であり、 あくまで音を移した文字が発祥。、 そこを一歩飛び抜けた1つの視点が「表態文字」な訳です。 仮名にはそもそも2つの考え方があって、 漢語を読む為の翻訳機能と状態を物語る為の表現機能なんだけど、 今回、注目したいのは連綿としての表現機能。 これは表態文字の考え方に被るところで、 実はこれ、調べていくと面白いことがわかりました。 歴史的にみて、仮名が漢字では無くなった瞬間があるんだけど(平安中期)、 注目する点としてはそれと仮名としての連綿性が高まった瞬間が重なっているという事です。 つまり、漢語の翻訳機能ではない表現機能としての仮名にだけ限定すれば、 表態文字は証明されちゃうという具合なんです。 そもそも仮名とは、 女の人が漢字から遊びで編み出したもの、 底辺でいうと日記をこれで書かれていた事は有名ですが、 これに目を着けた藤原行成が書の「和漢朗詠集」http://twitter.com/fengfeeldesign/status/12452598216。 それまで漢語だったんだけど、 ここらへんから急に大体的に仮名が使われ始めました。 書の視点でいう所では、 この藤原行成の字は女性的で完成された仮名という位置づけになっています。 という事はこれは、 そもそも女の人が使っていたこれら仮名を纏め上げて使用した、 極めて当時の仮名としての源泉に近いand完成度の高いものであると言えます。 この後、仮名は一気に男性的な文字に変貌していくのですが、 もう1つ注目すべき資料があります。 それは誰もが知っている「竹取物語」です。 実はこの「竹取物語」は日本で最初に書かれた物語であると同時に、 初めて「漢字と仮名」が今のような形で使用されたらしい(というのも現物が残っていない)書物なんです。 ちなみにその資料にはこう書いてありました。 物語る為には「漢字」だけでも「仮名」だけでも非常に伝えにくいというのは、 当時の認識として既にあったはず。 という事は、 表意文字としての漢字と、 表音文字ではなく、この時点で表態文字という認識での仮名の2つの役割は、 既に使い分けられていたという事になります。 ええと分かりますでしょうか。 もしこの表態文字的考え方を提唱するなら、 起源は漢字と仮名が融合する前にこそあり、 なおかつ仮名が状態表現要素(認識は無かったにしろ)として連綿で書かれていた事を考えると、 表態文字の可能性は証明されたと言ってもいいと思います。 なんだかんだいって「左良左良(さらさら)」がなんだか表記的におちゃめな感じなのは、 意識としてあったと言い切ってもいいんだろうけど。 ここからが新しい発見です(やっと)。 表音文字ではなくって表態文字を底辺に仮名を探っていくと、 仮名の面白さが滲み出てくるように思います。 表音文字としての言語創造の柔軟性にも着目してくれると助かるんですが、 結論として仮名は、 文字にして文字にあらず。 文字という体裁をもったまったく別の概念の、 何か別の表記ではないかという、 なんとも恐ろしい無理やりな発想です。 何故なら「書」で仮名を見た場合に明らかに印がない。 「ねこ」が「猫」の意を持つ事は難しい。 他言語はどうなの?ってなってくると主題が外れるのでここでは置いてといて、 見て欲しい画像があります。 http://twitpic.com/1gsz14 これは書の世界でいわゆる前衛とされる時に例に挙げられる代表的な仮名です。 恐ろしく「字」が抜けているのが分かります。 しかも「音」さえも静かで、 純粋に漢字からの表音ではなく、 仮名として扱っているのがわかります。 同時にここまでくると文字が完全に印ではなくなっている事にも気付かされます。 かくして、 日本の文化において音楽は西洋のような発展はしなかった。 雅楽なんてもんがありますが、 あれは一種の儀式のようなものだし、 文化としては何もなかったと言っていいんじゃないかと思う。 その中においてこの仮名です。 これは書体開発の大きなヒントになると考えているんですが、 今回はそれは書かないとして、 わかりますかね。 もしくは、 表態文字のように省略された動作にこそ印が含まれているという考えです。 「安」が「あ」になった時点でそれはもう「字」ではなく「音」になった。 そしてその「音」は文字では表現しきれないものへの欲求へと繋がったのではないでしょうか。 そう考えると「さらさら」をさらさら書けるのは、 「さらさら」という集合が状態として断片的に維持されているからだと思います。 もっと書くと、 「あ」は音階の「ド」でもいいと思う。だって音なんだし。 なんか西洋の文化を自然に受け入れてしまってるから気付かないけど、 実は日本の音楽ってここにあったんじゃないかな。 つまり「詩」「俳句」なんでもいいや。 脳内の心地よさ定数でいうところの視覚で音楽に近い快感を仮名で得ていたんじゃない? で、 もう一回「さらさら」に戻ると何か気付きませんか? そういう意味で言うと「うらめしや」とか最高傑作なんだけどなw そして表態文字を教えてくれた印刷の余白Labの野口さんに感謝とリスペクトを!
2010.04.20 Tuesday | 2010年4月 | 10:32 | comments(0) | trackbacks(0) |



20100418












2010.04.18 Sunday | 2010年4月 | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) |



printshopリリースアナウンス

printshopをリリースしました。 どうぞよろちく。

http://www.fengfeeldesign.org/printshop/

第一弾はmemo紙です。だいたいからして、 このprintshopって元々は写真を現像したり引き伸ばしたり手現像したり、 作品を売る為のものとして考えていました。 でもまあ急に思い立って、 印刷も加える事で2つでprintshopという具合です。 まず、印刷の部門で試してみたいのは、 印刷という定期発表の場としての構築です。 別に大それた事をしようというものではありません。 どうも「印刷」となると肩をビシ!としなくてはならなくなるし、 どうしても大手を振って取り組むようなスタンスになってしまう。 歴史的な背景もあるしね。 なんだろう、うんなの巨匠だか有名人がやりゃいいじゃんとも思ったのです。 ずっと気になっていた事は、 印刷という価値が上がる一方で、 同時に粗末にも使われているという現象。 何が印刷かという事も含め、 もう一度考えなきゃなってずっと思っていたのです。 印刷が使われているシーンが限定すぎるというのは、 随分前からの懸念でもありました。 なんというか、 なんともあやふやな定義で印刷というシーンが成り立っているというのは、 現在の印刷技術の広がりに比べてあまりにも不安定なものを感じたのです。 もっと自発的に刷られるという状況を作り出すにはどうしたらいいか。 印刷という形を伝承する上で何を伝えなくてはならないのか。 その答えがmemo紙という訳です。 ??????な感じかもですが、 memoを考えるという事は将来の印刷を考える事になると思ってます。 それは崇高な思想や歴史に負けないポテンシャルがあるのだと感じています。 印刷を私物化するという事。 印刷が第三者的な何かではなくって、 刷るという行為そのものが私物化するという現象。 紙を何に使うか、 刷るという行為、 もしくは紙に何かをするという欲求とは? memo紙。どうぞよろしくお願いします。
2010.04.09 Friday | 2010年4月 | 17:31 | comments(0) | trackbacks(0) |