続、写真と肖像権について

アクセスキーワードを調べたら圧倒的に「写真 肖像権」でのアクセスが多いので、 ああ、やっぱりこれについては気にしている人が多いのだなあと思いました。 で、続、という形でもう少し書いたらアクセスもアップするだろうという下心は隠しつつ、 もう少し突っ込んで書いていきたいと思います。 前の記事はこちら http://blog.fengfeeldesign.org/?cid=48276 とまあ、 まず前提としてはオイラ個人として、 どんなに違法だとしても、 撮影することは止めないし、 「人の写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになる。だから心遣いを欠いては、粗野なものになりかねない。 (アンリ・カルティエ=ブレッソン)」 という、 ある意味スナップフォトの全てを書いたこの一文に準じれば、 それが悪意に満ちたものであるかどうかは、 一目瞭然という具合なのです。 前回のおさらいとしては、 「写真における肖像権とは、その著作を脅かすものではない」というものでした。 ましてや、 著作権は撮影者にあり、 その人格権や財産権を主張する事は出来ても、 それを規制する事は出来ないという事もまた前提という訳です。 それはなんでかって言うたら、 「表現の自由」との摩擦を埋める為の言い訳ってなとこなのでした前回はね。 で、 問題が発生した場合に、 裁判所で決着付けようぜという事にする為に、 人格権やら財産権やらプライバシーの権利やらを絡めた法律がある訳ですな。 今回立ち入りたいのは、 「写真における肖像権」の肖像権そのものです。 肖像権の正体、これっていったいなんぞのもんなのでしょう。 『自分の顔や姿をみだりに他人に撮影・描写・公表などされない権利。人格権の一つとして認められている。』 一般的な辞書ではこう書かれています。 これにはツッコミどころ満載なのは後でとっておいて、 そもそも、この肖像権なんてものは、 最初の登場は1800年代の後半だったっけか。 カメラが台頭してきて不安に感じた人が、 プライバシーの権利について論文だかを発表したのが最初です。 たしかアメリカ人。 結局現在のアメリカは、肖像権よりも表現の自由が優先される事になり、 プライバシーより作品の文化性が優先される事になって、 ほとんど肖像権に関していえばよっぽどでない限り、 無視されちゃうんだよねこれが。 逆に1800年代のアメリカは、 なんか今の日本みたいやったんかなあ。 表現とプライバシーの羽佐間で揺れてる光景。 撮る側の意識の低さ、 撮られる側の意識の低さ、 ていうか日本人ってカメラ持つくせに、 その文化性に触れてないやつ多すぎるねんという、 どっちかっていうと日本はアカン方向に進みつつあるのは後に置いといて、 日本の肖像権。 そもそも、 あの文章ってどこからきたんやろ。 昔の関連した裁判で、 裁判官がいったある言葉に酷似してるのは気のせいなのかなあ。 どっちが先でどっちが後なのかは知らんが、 結構の昔の裁判です。 その一文の冒頭。 「公権力が国民の顔や姿をみだりに撮影・描写・公表してはいけない…うんぬんかんぬん」 これたしか国側(警察)が負けたんですよね。 なおかつ人格権や財産権をプライバシーの権利に絡めて考え始めたのが最近。 で、肖像権。うーむ。 この肖像権の定義を考えたん誰なんでしょう。 なおかつ、 写真や描画表現に関係させたのは何故。 これって変て気付きませんか? 全ての肖像権に対しての文章を読んだ訳ではないけれど、 何故か「個人」が対称になりかねない文章です。 うーんおかしい。 プライバシーの権利ってもともと、 新聞等のマスメディアの発展で個人生活が脅かされる可能性を考慮したもののはず。 そして人格権も財産権も同じスタンスのはず。 その中において肖像権。 あくまでマスメディアから一個人を守るための発想のものでしょう。 これを警察が個人を取り締まるのは変なのは置いといて、 どうですかね気付きませんか。 『自分の顔や姿をみだりに他人に撮影・描写・公表などされない権利。人格権の一つとして認められている。』 この文章間違っていないけど、 ちょっと間違った解釈にならないですかね。 撮る事に対して撮られるのが嫌で撮るなというのは別にあっていい事だが、 人格権や財産権、プライバシーの権利を盾にするのはどうもお門違いな気がする。 まとめて書くと、 肖像権とはプライバシーの権利のある一文で表現されたものを、 抜粋し定型文にしただけで、 それ単体では意味を成さないのです。 むしろ最初の理念がまったく汲み取られていないし、 あの裁判にしろ、 おそらくは引用だったのでしょう。 いつの間にか撮影そのものへの規制の文言になっている、怖いものです。 あくまで法律や文章の世界ですが、 それがアイデンティティになりやがて一般化された。 マスメディアと個人との区別は付きにくい物ではあるけれど、 結局はそれを扱う人間と、 それを理解出来る文化の高まりがあってこそ、 それが達成される訳で、 今の日本の、 目を塞ぎたくなるような文化の低迷の中で、 人格権や財産権、プライバシーの権利等なんの役にもたたないという事です。 悪循環です。 規制する事で一定の権利は守られますが、 あまりにもネガティブすぎます。 むしろ権利を守るのは人間の意志にこそあって、 それを規制する事に文化の高まりはない。 守るための規制。 その慣れの果てが肖像権というあたかもの権利。 でねでね、 ここからが一番書きたかった事。 なんでここまでカメラは悪者になったんだろう。 許可撮ればいいって事になってるけど、 というかそういう人が多いけれど どう考えても撮影される事が険悪なものなっているのは確実で、 撮って欲しくない丁度良い理由として、 肖像権という言葉やプライバシーという言葉を使っている、 その奥底にある理由っていったいなんなのだろう。 単に撮れない感や撮って欲しくない感というのは、 肖像権だかをの文言の前に、 さっき書いた『文化』そのものの低迷が引き起こしている他ならないと考えています。 明らかに写真の価値が下がっている。 人を撮るという行為そのものの価値が地の底に落ちているんだと想像せずにいられません。 ああ、マナーを守らなくてはも同じレベルですね。 そもそも方法にルールなんて存在するのかね。 カメラで殴りかかったらアカンぐらいはわかるかなあ…。 この文章を読んでいる人で、 肖像権の事が気になった撮影者は居ても、 写真をしていないが肖像権に興味がある人は凄く少ないでしょう。 だからこそ書きます。 覚悟決めなあかん。 どうせスナップ写真の地位は地に落ちてるんだから。 オイラは撮り続けるぜ、 どんなけ嫌な顔されても、 その行為が否定されたとしても、 それを止める決定的な理由にはならないでしょう。 例えそれが肖像権なんて脅迫があってもね。 1人でも多くがこの文章を読んで写真を理解し、 写真という文化の高まりを促す一員が増えることを願ってます。 「人の写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになる。だから心遣いを欠いては、粗野なものになりかねない。 (アンリ・カルティエ=ブレッソン)」 を心に秘めて。 いい写真を撮りましょう。
2008.12.17 Wednesday | 2008年12月 | 13:30 | comments(0) | trackbacks(0) |



バウハウスと茶の湯

この本に出会ったのが5年前。 あるかっぱ横町のとある古本屋。 立ち読みしてたら店主に怒られて退散。 背表紙裏の価格見たら8000円…。 えー!!普通のページ少ないハードカバーの本やん!!とツッコむ。 最近アマゾン覗いたら20000円近くまで…。 発売は95年。 部数は少ないって言うてもこれはないよなあって。 それでも内容には興味があるので、 どうにか読んでみたいといろいろと探してみたら、 近くの図書館に2冊も所蔵されてる事が判明。 書庫の資料なので手続きして申し込む。 ドキドキ。 久しぶりに本一冊にドキドキしました。 図書館で宝物のような本を見つけるような、 あの感覚も凄い久しぶりでした。 手に取り、 とりあえず天高く本を挙げて歩いていた姿は、 周りにいた中間テストだか期末テストの高校生に変な人として見られ、 ガードマンには物凄く警戒されていた事でしょう。 席についてドキドキしながら本を開き読み進めます。 1回目を読み終わり、 2回目に差し掛かったところで、 不覚にも涙流してました。 特段、 感動する内容な訳でもないんですが、 さぞかし、 手前に座ってた女子高生は怪しがっていた事でしょう。 とくに、 文字数が多いわけでも、 文学的に優れている訳でもないのだけど。 金持ちなお嬢様の体験談でしかないし、 ディープにバウハウスを綴ったエッセイでもないけれど、 充分でした。 別にその教育方法やら在り方については前から知っていたし、 そういうのんはなんかの本で読んでたけれど、 それよりも凄く大切な事がこの本には書かれていたように思います。 つまりデザインの根本。 バウハウスで何があったのかではなく、 バウハウスはなんだったのか。 あの奇跡について具体的な始点がこの本にはあった。 バウハウスこそがデザインだった。 間違ってなかった。 この姿勢は過去に幾度も否定され続けてきたけれど、 それが確認出来ただけで良かった。 あ、貴重だけどそんなに素晴らしい本という訳でもないよ。 ただ、あのたった1行で良かった。 それじゃ本になんないから、 あの文章があったんだろうなあ。 悔しいなあ。 どう考えてもあのナチスの影響で閉校したのが良いタイミングでもあったし、 惜しいという事なんだろうなあ。 70年前だぜ。 そんな昔じゃないし、 デザインで言えば凄い昔。 なのに根本は結局は変わらなかったという訳か。 ああいいなあ。 昔にデザインは永続不可能なんて文章書いていたけれど、 デザインは永続可能かもしれない。 ずっとその可能性を追い続けていたし、 今も実はそう信じている部分があって、 もしかしたら、 デザインは永続可能なのを実証出来るチャンスが目の前にあって、 それが実はバウハウスにあったんだと、 初めてこの本を通して気付かせてくれました。 何回でも書く。 間違ってなかった。
2008.12.05 Friday | 2008年12月 | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |