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2007.08.17 Friday | 2007年8月 | 15:28 | comments(0) | trackbacks(0) |



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2007.08.07 Tuesday | 2007年8月 | 18:53 | comments(0) | trackbacks(0) |



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2007.08.07 Tuesday | 2007年8月 | 18:23 | comments(0) | trackbacks(0) |



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2007.08.07 Tuesday | 2007年8月 | 18:14 | comments(0) | trackbacks(0) |



写真が変わっていく

3年間撮り貯めていた写真を作品にしたのをきっかけに、 踏ん切りが付いたのか自分の中で何かが弾けたように、 撮るという動機に少しの変化が表れはじめました。 今まで自分を規制するように厳しく撮る撮らないの選別をしていたのですが、 どうもどうやらそういう思考というか考えというか、 1つ作品という形にしたおかげで肩の荷が降りたというか、 自由にシャッターを切り、 写真という在り方さえも違うものとして見るようになりました。 大切なのは写真の場合は、 このボクが素晴らしい写真を撮るという事ではないという事だったのです。 素晴らしい写真は撮られたそれらが素晴らしいから、 写真が素晴らしくなるのだと思いました。 構図や技術や経験。 時には玄人様は1年に1000本は撮らないとアカンと言いますが。 違ったのです。 ちっとも違うじゃないか。 写真を撮る本人が素晴らしいのではなくって、 それを撮られるモノ、事や環境や状況、 全てがマッチして初めてその写真の素晴らしさが出てくるのだと、 または見た人の経験や知識によってもその感動は違ってくるのだと。 写真を撮って、 まず見せなきゃいけない人見せたい人がいるか居ないかで大きく変わってきそうですし、 それがその人にとってなんなのか、 単に石でも、 撮った人その写真を見た人によって大きくその印象は変わるものなんだ。 どれだけ演出された巧みのある写真だからといって、 それが素晴らしいかと言われれば違うのだと。 今までのボクの写真は誰が見てもきっと一緒の写真だった。 撮った本人でさえ、 それがなんなのかさえわからないものであった。 単にそういう写真を撮ってきたからこそ、 そうじゃない写真が撮られるのかとい言われれば怪しいけれど、 けれど気付いた。 そして写真が変わっていく。 これから撮るもの1つずつが変わっていく。
2007.08.06 Monday | 2007年8月 | 16:08 | comments(0) | trackbacks(0) |



デザイン

デザインがなくなる時が死ぬる時なのだと、 自分の中のデザインという思想が消えてしまう事が死ぬる時なのだと。 デザインの創世が、 「美術、または工芸の技術が社会(または経済)という思想の元で在りうる為の手段」 というバウハウスの思想を受け継ぐ為に日々活動し、 この身を焦がし全てを捧げている。 デザインに魅せられ唆されていたのだとしても、 それが自分の全てであり、 そうありたいと願う自分の生き様であると断言したい。 だが今はどうか、 デザインという名の元に下らない生産主義の勘違いの塊のような自分で考えないデザインが蔓延る中で、 デザインは在る。 と言えるのか。 社会に在り得るではなく、 社会と接する為の手段がデザインであるはずなのに、 この空気の違いがわからないのか。 社会が美術、または工芸の技術と接することの出来る唯一の手段がデザインのはずだ。 社会に順応したデザインの等はデザインに在らず、 デザインという名の語った職能でしかない。 技能はどこへいった。 デザイナーの諸君は何が出来る? 大きな声で「提案」と言うべきだ。 そう「提案」なのだ。 「提案」でしかない。 それを受け入れる土壌は誰が作るのか。 それさえ考えずにデザインの発展や先進はあるものなのか。 社会の順応の任せて、 経済の動きに合わせて、 デザインの在り方はそこで終わりなのか。 1つの流れ、 また1つの大きな場所に委ね過ぎではないか。 これは絶望の展望である。 このままいけばデザインという思想そのものが間違って解釈され捻じ曲げられ、 美術は美術としてデザインはデザインとして、 これこそ間違った解答であり、 最初の思想とはまったくの別物として進んでいく。 そしてデザインは死ぬ。
2007.08.05 Sunday | 2007年8月 | 17:01 | comments(0) | trackbacks(0) |