花形装飾活字を愛でる その78

本題です。 やっと此処で花形装飾活字登場です。 デザインするという事ととシーンであるという事。 この2つを花形装飾活字に委ねた場合の可能性とはなんなのでしょう。 考え方としては、 花形装飾活字をもう一度初めから考える方法。 花形装飾活字という考え方を継承するという方法。 花形装飾活字から時代性を考慮し発想する方法。 花形装飾活字という研究材料としての在り方。 花形装飾活字というモチーフという考え方。 花形装飾活字が…。 際限なく在りそうな感じですが、 全てにおいて共通したものがあります。 花形装飾活字であるという事です。 当然といえば当然ですが、 冗談でもなく真面目に書いてます。 創造とは常に再現にありました。 花形装飾活字でさえその例外ではありません。 原点があって人の理解がある。 以前にグラフィックデザインとは搾取であると書きました。 それに加えてデザインとは汲み取るという事。 デザインは再現でさえない。 限定的なチョイスから生み出される美の共有。 これがデザインの正体だ。 だからこそシーンが必要なのだ。 何故なら共有だから。 現在のグラフィックデザインの不安定な感じは其処にある。 のは、話が変わるからいいか。 何故なら共有だからです。 可能性でもあるのですね。 つまりデザインとは可能性にこそある訳です。 デザインをするという事は可能性を模索するという事。 そして花形装飾活字に戻ります。 デザインするという事ととシーンであるという事。 この2つを花形装飾活字に委ねた場合の可能性とはなんなのでしょう。 ずばり「花形装飾活字」を的にする訳です。 あ、「花形装飾活字」が的になってもそろそろいい頃だよねって話。 こんなに素晴らしいものをこのまま古びかせて捨て置く事はなかろうて。 ただ花形装飾活字として扱ってしまうと失敗で、 それに、 花形装飾活字そのものを作る行為はデザインとは言えないのですよね。 デザインが可能であってもシーンとは言えない。 じゃあ、どうなのよ!? は続きは蓋を開けてからにしておきます。
2008.11.20 Thursday | 2008年11月 | 10:33 | comments(0) | trackbacks(0) |



花形装飾活字を愛でる その77

単に花形装飾なら活字である必要がない訳で。 ある一定量の同一の物質を作成する前提で計画されたもの。 情報、インク、紙、目的、要素……そして印刷という概念。 技術としての活字という仕組み。 そう活字だった。 写本なんて手間のかかる作業なんてやってらんないし、 美しさと伝達性で圧倒的な正確性を得た。 で、現在の単純化された印刷システム。 もうこれは繰り返しですね。 ここ1ヶ月は同じ事しか書いてない気がする。 伝えたい事の全てはここに凝縮していてシーンな訳です。 花形装飾活字という出来事はいったいなんだったのか。 一言で言うと創意工夫の賜物なのでしょう。 細かいのは抜きで、 花形装飾活字の時点で活字による印刷は極まったのだと思います。 既に新しい技術と平行にあったであろう状況の中で、 ある程度「新しい技術」よりも確定的な技術として、 多くの印刷を実現していた事でしょう。 現在の日本でさえ、 小さい印刷屋さんは主流の印刷術として、 木版を活用した活版を利用しています。 「印刷」はたまた「いんさつ」とでも書きましょうか。 そして、 これらにはグラフィックデザイナーは関与していないという事です。 グラフィックデザイナーが関与しなくとも印刷は可能なのです。 印刷にとっての大きな失敗はグラフィックデザイナーの登場であったと考えています。 グラフィックデザインの台頭で印刷は衰退しました。 グラフックデザインと印刷。 あたかもグラフィックデザインが印刷のようなイメージです。 出来上がったものを刷るというのは、 なんて贅沢な事なのでしょう。 だって、 出来上がってもいないのに、 出来上がっているというイメージ。 完成という着地点が印刷じゃないところにあって、 前回の話でも、 次の天王寺という構想があっての街という考え方。 たまたま其処にあった天王寺という在り方。 これは趣向の問題なのかもしんないが、 それをデザインするという事。 シーンであるという事。 次こそやっと花形装飾活字が出てきます。
2008.11.19 Wednesday | 2008年11月 | 13:14 | comments(0) | trackbacks(0) |



花形装飾活字を愛でる その76

なんだろうこの現状。 そして天王寺は終わった。 あの阿倍野の奇跡は根こそぎ無くなった。 「代わりのもの」は出来上がりつつあったけれど、 あの奇跡はもう無い。 同じ料理店でも味は変わってしまったし('あの名店のあの変わりようは…)、 あの路地へ入り込んでいく怪しさも、 資金の無い人は確実に止めざるえない状況になった。 これで地震で崩れる心配は無くなったし、 すっかりマンションが建って綺麗になるのは時間の問題のようです。 昔を知っている人は愕然とすると思う。 だって本当に何も無くなってしまった。 そこまでやっちゃうかと思った。 残った場所もいずれは一掃されちゃんだろうね。 もうね、 これもね、 話は違っていないのです。 なにやってんだか。 こんなにも同じ場所に人が密集しているのに、 わざわざ人に会いに行かなくてはいけない。 だいたい近所付き合いなんてパターンが決まっていて…、 ってこれは違うか。 たかが知れている。 どうせ優秀なやつらの行き場所なんて一定だし、 そういう仕組みの中でやっている。 気付いた頃には中年で、 もしくは歳が行き過ぎてて抜け出せないか、 すっかり居場所になってしまっているか。 若い頃に気付いたとしても、 潰されるか諦めるかのどっちかだ。 と、 これは極端な話。 そして全てはグラフィックデザインに照らしあわした内容です。 別に社会だとか思想の話でもないです。 単にここで新しい花形装飾活字を作ったからといって限定的であるのは明白なのです。 なによりも難しい事はシーンとして機能するかどうかという事にあると思います。 まあ、ほんのささやかな収入もあればなあ。 所詮、 突然作ったとしても、 その活動を続けなければ終わるのが関の山。 続けなくても続く活動にしなくてはならない。 つまり「花形装飾活字」的であると思います。 目的の無い存在がある目的の助長になるようなもの。 そしてそれがシーンであれば、 なおよろしい訳です。 あ、グラフィックデザインですよ。あくまで。 まだ続きそうです。
2008.11.17 Monday | 2008年11月 | 14:09 | comments(2) | trackbacks(0) |



花形装飾活字を愛でる その75

はてさて。 なんか否定論ばかりになってしまいました。 そういうのんばっかり書いてても仕方ないですね。 1つの方向としては、 ミニマムに進むのが手っ取り早いと思います。 中島英樹もなんかのインタビューで書いてますが、 経済を後押しされたグラフィックデザインを良しとする、 もしくは、評価される事にある一定の温度差を感じるらしい。 うん。まったくの同意です。 だからといって、 経済とグラフィックデザインを完全に切り離して考えるのも違う気がするし、 個人的には1つの指標としては絶対に必要なシーンだとも考えています。 そこにタッチしないのはリアルタイムが感じられなくなるし、 そうなると、 グラフィックデザイナーとしては終わりだと思う。 画家であるってなら(現代アートはちょっと事情が違う?)別ですが。 これについては中島英樹も同じような事をインタビューに答えていたように記憶しています。 もし、 付け加えるなら、 グラフィックデザインとは手段であり、 その手段を経済という名の社会が利用するのに最適だったという事でしょうか。 あのバウハウスに則って言うなら、 美術、芸術の技術が社会との繋がりを促す為の手段がデザインなのでしょう。 その中でミニマムで進むのが手っ取り早いというのが答えなのです。 グラフィックデザインが自発的であり続けるのは難しいと考えられます。 一定の条件では可能な気がしますが、 それを永続するというのには疑問があります。 グラフィックデザインは素は印刷にある事を考えると、 前回に書いたとおり、 グラフィックデザインの技能は「搾取」する事にあります。 という事は、 グラフィックデザインの肝は技ではなく「知」という事にもなるのです。 いかに知っているかがグラフィックデザイナーである事の、 最大の条件であるように思います。 コップと皿の例は良く聞くし、 このログにも何回も出てますが、 それさえもやはり、 認識であり「知」である事は間違いなさそうです。 そこに「要素」というのが潜り込む事で、 グラフィックデザイン、もしくはデザインが成立しちゃうのは、 別の話なので置いといて、 グラフィックデザイナーは知らない事を恥ずべくです。 知る行為をあるコンプレックスの塊ような、 画家が絵を描くのを日常にするように、 グラフィックデザイナーは無意識でいる日常を恥じなければなりません。 と、 またまた脱線するので、 そういう経緯において「花形装飾活字」があった訳です。 んでミニマム。 ギターを1本作るのに、 畳6枚くらいの木版が必要で、 1本をマジで作ろうと思ったら2年の作業だぜって教えられて、 今じゃ大量生産になっちゃって、 生涯の1本に出会うなんて楽器屋が無くなったなあというのを話ながら、 そういえば現在の日本で箪笥の肥しになってるギターって何本あるんやろう的な流れになって、 あのギブソンが日本には3000本は肥しになってるんじゃないだろうかとか。 実は日本で一番弾かれてるのはモリスなんじゃないの?とか。 いやいや、実はモリスも捨てたもんじゃないが、 マーティンの凄さに愕然(値段にも…)とするだけでとか、 フェンダージャパンの仕上げの甘さにビビッタりとか。 なんだかんだいって、 ろくに弾けもせずに、 美術的骨董価値で飾ってるやつらが一番悪だぜってなもんで、 その影で世の中学生やら高校生は安価な音の出ない弾きにくいギターで我慢してるんだぜという流れで、 結局は、それはなんでかっていうと、 カルチャーとして根付いてないもんやから、 売ったらそこまでよ主義というか、 買ったもののメンテとかリペアとか改造とか、 結局は1つのシーンにしか渡せないジレンマがあって、 自分のわからないところで作業されてて、 買う前の事とか、 任した後の事とか、 そういうのがどうもわからないで当然みたいな。 だから名前とかブランドとかで信用するしかなくって、 いつの間にかそういう事になっちゃってたんだろうなあという話。 ボクも、 今の会話をしてた人と会う時までは実際そうやったしね。 そういうのがバックグラウンドが身近にあって知ってる人やからこそ、 ものを愛する事が出来るのだと思うのですよ。 単にポンと出てきて完成だけを知っていて、 その他は任せてしまったところで、 生涯の一本のギターとは言えないわけです。 実は、 この話は脱線してません。 次こそは花形装飾活字が出てきます。きっと。
2008.11.14 Friday | 2008年11月 | 12:58 | comments(0) | trackbacks(0) |



花形装飾活字を愛でる その74

「花形装飾活字」的な印刷発想のシーン展開について、とその可能性について。 最初に明言しておきたいのは「的」であるという事。 「花形装飾活字」そのもののシーンの回帰を狙うものではなく、 印刷という発想、もしくはイメージ、アイデンティティに対する、 シーンの展開、そして可能性について触れていけたらと思います。 最近、 個人がやたらに印刷にこだわっているように思います。 というのも、 残念ながら こだわった印刷ではなく、 「印刷にこだわっている」のです。 まるで病のように、 印刷でのカンプを望みます。 もしくは、 コンピュータで作る事を望んでいます。 それがあたかも神話のように語られます。 正しさを追い求める日本人の性とも言っていいような気がします。 この願望の強さは異常であるとも言えます。 例えばこうです。 ある要望では「手書き風で」「筆文字風で」という注文が多い。 この矛盾、わかりますでしょうか。 なんとも不思議な事を言っているのです。 これが現実です。 印刷という技術がキチンと使う側に伝わっていない。わかっていないでもいいか。 残念です。 有り得ない。 そもそも印刷の領域とはなにか。 印刷は万能ではない。 グラフィックデザイナーもまた万能ではない。 何が出来るかからの発想がしにくくなっているのも、 また現実です。 その要因を挙げ始めたらキリがない。 紙でさえ、 選択の幅が広がったのは最近である。 その自由を選択する事の出来る、 そんなパイプの持っているデザイナーもまた少ない。 重要なのは印刷とは「搾取」であるという事。 気味の良い搾取のウマイのがグラフィックデザイナーとも言う。 知らない人達が知っている人にモノを頼んでいるのに、 何故こんなにもウマク事が運ばないのだろう。 やはり要因は挙げたらキリがない。 実に不思議な状況だと思う。 質の良い印刷が出来るようになった。 いろんな紙が選ぶ事が出来て加工も自由に出来るようになった。 グラフィックデザイナーの質も向上し一般的な認知が向上した。 受け手もそれを求めるようになった。 が、 ここまでの状況を作り出しておきながら噛み合っていない。 何故かシーンが1つに偏ってしまっている。 こんなのはこの文章で書いてもしょうがないけれど、 ある1つのアイデンティティから抜け出せない現状が今であるとも。 これ以上先はテーマと違ってくるので書かないでおきます。 つまり、 目的としての意識が印刷を必要とするシーンであるなら、 その目的とするシーンがあまりにも一遍通りであるがゆえに、 どうにもこうにも、 印刷というシーンが狭まってしまっているように感じずにはいられないのだ。 作る側とて、 その底辺の在り方を喋る場合に、 明らかにあるアイデンティティを基礎にしているが為に、 どうも着地点が見つけれてないのではないかな。 もしくは、 底辺そのものの在りどころを語る場合に、 なにやらその元が無い状況あるのは不幸というべきか、 今の現状を語る上で凄く重要です。 委ねるシーンの一定論でしかない事が、 今の印刷をとりまく人との関わりにも影響をしているのだと考えています。 続く。
2008.11.12 Wednesday | 2008年11月 | 15:34 | comments(0) | trackbacks(0) |



千代紙な名刺の新図案を追加しました。

ぐったり…。 ホント今回は大変でした…。

http://www.seiko-do.net/online_shop/name_card/

当分はこれでオイラは、 千代紙な名刺とは少し離れてしまいますが、 企画は続いていくと思いますのでどうぞよろしくお願いします。 さあて、やっとこれで次の事に取り掛かれます。 次なにやるかは言えませんが、 なんといっても千代紙な名刺でも5年前の計画ですから、 それぐらいのバネがあるものと期待してて損はないと思います。 とりあえず、 新図案、覗いてやってくださいませ。
2008.11.10 Monday | 2008年11月 | 23:15 | comments(0) | trackbacks(0) |



花形装飾活字を愛でる その73

これから、 新たな花形装飾活字を提示するためのシーンを作っていこうと思っています。 もちろん、 ボクの他にも同じように、 「花形装飾活字」ではないにしろ印刷というシーンに対して、 原点回帰、もしくは、 現在における印刷という価値の否定。 そして構築しようとしている方がおられます。 これについては、 今回、 この花形装飾活字を配布する事で知る事が出来ました。 数は少ないですし、 シーンはバラバラなのですが、 確実に現在の印刷に疑問を持っている人がいるという事です。 そしてなによりも印刷を愛しておられます。 アート、デザイン、個人、同人、 アプローチが違うという事であっても、 それがわかっただけでも大きな成果だったように思います。 側面は違っても花形装飾活字の包食袋は担うだけのものがあるという事です。 その在り方に可能性を感じずにはいられません。 そして今回は、 デザインという側面から初の文章を寄稿をしていただきました。 なんとも刺激的な内容です。 そして熱い。 これからグラフィックデザインの事を始めようとしている方、 グラフィックデザインの事を知ったふりをしている方、 とくに30代、40代以降の職能だけひけらかしている方、 そんな人達に是非読んで欲しい文章です。 では、どうぞ。

profile_________
[野口尚コ(NOGBo2X)]
武蔵野美術大学基礎デザイン学科卒業。DTP・誌面デザイン会社の総務をしながら、個人で特殊印刷を使った作品制作を開始。 2009年1月に会社を離れ、素材・印刷からデザインまでの提案を行う[印刷の余白Lab.]を開始。 最近は小型活版印刷機を導入して色々実験中。
http://yohaku.biz/
____________

Theme「印刷とデザイン」
『ものづくりとしての印刷再考』

<版の喪失>
序文を兼ねて、ありきたりではあるけれど近年の印刷の話から。 この十数年ほどで、印刷とデザインの間に起こったことは「版」の喪失だった。 もちろん、今でも版は存在しているのだけれど、多くの若いデザイナーの意識の中からそれは薄らいでしまってしまったように思う。 DTPによって『印刷されるべきイメージ』を手に入れてしまったために。 誌面のデザインについて言えば、 DTP以前の印刷は活版印刷や写真植字という方法が用いられてきた。 これらはデザイナーのイメージを版下・製版の専門家と協力して版に落とし込まないことには、 どんな刷り上がりになるか分からない方法だったため、デザイナーはイメージ通りの版ができているかを常に確認する必要があった。 現在では、デザイナーがデスクトップで作成したデータそのままに版を作成し、印刷ができるようになっている。 それはデザインから製版までの作業が、場合によっては一人で完結してしまうことにもなる。 もちろん、私自身が版を意識せずとも印刷物のデザインが成り立ってしまう世代の人間だし、 懐古的に批判するつもりもない。 むしろDTPのおかげで、 版を組む職能がなくともクオリティの高い印刷ができるようになったのだから十分に凄いことだ。 データさえきちんとつくれれば、誰でも入稿できる。印刷という産業から見れば(技術革新の痛みは伴っても)市場が大きく広がったと言える。 はずなのだ、本当は。 いきおい市場の話になってしまったけれど、少し話を戻そう。 まず、印刷物のデザインが刷りものという物質から、視覚デザインに変化してきたことを確認したうえで、 「物質としての刷りもの」について考えてみたい。その紙に「何が刷られているか」ではなく、その目の前のものが一体何なのか。

<物質としての刷りもの>
私がモノとしての印刷をはっきりと意識するようになったのは、特殊印刷に関わるようになってからだ。 それまでも、DTP・誌面デザイン会社の運営部門にいたのもあり印刷は身近なものだったけれど、 刷り上がりや色の見た目の確認はしてもモノとして意識することは少なかった。 ひょんなことから、 会社の新しいウリを開拓しようという名目で(実際は、ものづくりとかけ離れた現場を脱したかったのだが)特殊印刷に強い印刷会社を探し始め、 特殊印刷の知識を収集しはじめた。いま様々なデザイン誌でも取り上げられているように、 特殊印刷の面白さはモノとしての質感にあるし、私自身もその面白さをどうやって生かすかを日々考えるようになった。 なかでも強く印象に残っているのが、 懇意にしてくださっている印刷所を取材させていただいた折、 箔押しの職人が「箔押しで大事なのは『熱・厚・時間』」だと仰ったことだ。 デスクトップでいかに頭をひねって完成させた気でいても、目の前の印刷物は確かに、 ディスプレイの光ではなく3馬力のマシンで 130℃、0コンマ5秒かけることで生み出されている。 そんな当然のことが衝撃でもあった。 通常のオフセットだってもちろん考え方は同じで、化学反応と圧と時間でできている。 その元には金属や樹脂などの版があり、インキや顔料が紙に定着されるプロセスを経る。 誌面のデザインが Editorial と呼ばれ、視覚表現が Graphic と呼ばれ「表面をデザインする」ことに名前がつき、 それがデスクトップで行えるようになった。 しかしながら印刷物そのものは平面と Industrial の狭間にある。その視覚と物質の境目を繋いでいた「版」の在り方も変化してしまった。 2Dのイメージがモノになるとき。そのギャップを埋めるのは、デザイナーの想像力にかかっている。

<コンテンツの物質化と贈与>
次に、モノとしての印刷物と、「印刷されるもの」との関わりを考えてみる。 コンテンツを、モノにする、それも複製を前提としたモノにすること。 DMを印刷する。木版を彫って瓦版を刷る。聖書が活字で印刷され本になる。 それらは、バラまくことも、預けることも、保管することもできる。何にせよコンテンツをモノして分け与えることができる。 モノを介さないコンテンツの伝達として、 口伝であったりwebであったり方法は色々あるけれども、 それらは「情報」のため伝わった途端に姿を消してしまう。 逆に手書きの原稿や絵画など「オリジナル」しか存在しないモノの場合は、 与ることはできても共有できない。印刷の場合、コンテンツを贈与しながら共有することになる。 さらに同じ印刷物でありながら、それぞれが違う扱われ方をし、違う歴史をその身に刻んでいく。 ごく簡単なところに帰ってこれば、印刷物の制作は基本的に「渡すこと」を前提にしている。 コンテンツという形なきものを、紙というフレームに収め、渡すこと。 その価値は、コンテンツだけでなく相応の「手間と美しさ」があることもポイントになる。 web上で見る小説と、文庫本の小説と、活字を組んで印刷された小説では、コンテンツは同じでも受取る側にとっての価値が違ってくる。 身近なところなら名刺や季節の挨拶など、何気なくやり取りされているものを Gift にすることもできる。 デザインは、それぞれのコンテンツに合わせたメディアを考え、それぞれのメディアに合わせた価値をつくりだすものなのだと思う。 そのため印刷では、表面のみでなくモノとして捉える視点がやはり大事なのだ。 にもかかわらず印刷のデザインが視覚で語られることが多いのは、 DTPの影響だけでなく、 広告としてポスターや中吊りなど「見せるだけの印刷物」が増えたのも関係しているように思う(これらは必ずしも印刷である必要はない。 液晶だって良いのだ)。見せる効果のノウハウが広く学ばれるようになり、視覚デザイン=印刷のデザインのようになってきてしまった。 それはひとつの表現で、印刷の使い方ではないことに注意したい。印刷は技術であり、技術は使い方次第で多様な表現を可能にするものだから。 話が仰々しくなってしまったけれど、ここまでの断片を一度まとめてみる。

・印刷のデザインは、DTPによって専門職でなくとも扱えるものになった。
・しかしデータ上のデザインと印刷工程にはギャップが生じている。
・印刷はあくまでものづくりの技術である。
・印刷物はコンテンツにカタチを与え、渡せるメディアである。

で、そこから私が伝えたいことは何かというと 「もっと技術を使ったものづくりの側から、印刷に入ってみてもいいんじゃないか」 ってことなのだ。(かなり飛躍……) グラフィックがどうとか文字組がどうとか確かに大事なんだけど、それは印刷物を追求していけば必然的にぶつかる問題で、 必要ならできる人間がナビゲートしてあげれば良い。 まず誰もがものづくりを楽しむところから印刷の世界に入ってみたっていいんじゃないかと思う。 それに、改めてモノとして印刷物を見たとき、そこから新しいデザインが生まれるかもしれない。 そして、印刷の面白さという意味では、特殊印刷は多様で奥が深く、原理はむしろシンプルなものが多い。 やってみないとわからないし、できるならやってみたいと思っている人は多いはず。 その機会をいかにデザインしたらいいだろうか。

<個人という市場>
始めに述べたように、技術的には個人でも簡単に印刷の入稿ができるようになった。 私は(特に特殊印刷の市場として)デザイナーのプライベートワークや、 それこそデザインに関わりのない一般の方が印刷物をつくっていくことに可能性を感じている。 けれど、印刷物を個人で依頼するにはまだまだハードルがある。

・事例が少ないこと。
・発注のルートが分かりにくいこと。
・印刷所とのコミュニケーションが難しいこと。
・デザインと印刷がセットで依頼しづらいこと。
などなど……

まず、実際に見て触れたものでないと「やってみよう」とはならないのが当然で、 「印刷をこんなふうに使っています」と送り届ける人が必要だと思っている。 有名なデザイナーが扱っているからといって、自分もやろうとはそうそう思わないはず。 印刷の面白さを発信する個人が増えないと、浸透していくのは難しい。 そして、自分でも印刷をしてみたいと思ったとして、そこには大きなハードルがある。 どこに、どうやって頼んだら良いか分からないということだ。 情報を集めるのに、まずwebで検索することが多いと思う。 しかし印刷はもともとアナログ仕事な業界でもあるし、今でも良い加工をなさるのはお年をめされた熟練の職人たちだ。 情報公開を積極的にしているところはごく限られている。 しかも、印刷所がいかに素晴らしい仕事をしても、それはデザイナーや出版社の仕事であり印刷所の名前が知られることは少ない。 また、印刷業界というのは、出版社の仕事を引き受けるような大手の印刷所を除き、 ほとんどがそれぞれの得意分野を持ちながら分業している(大手だって難しい加工は、 得意な中小の印刷所に任せることも多い)。頼んだ加工が得意なところと、 そうでないところでは仕上がりに大きく差が出るし、下請けに出てしまってコストや納期が大きくかかることもある。 自分のやってみたい加工を扱っている印刷所を調べるのも一苦労なのに、何社も比較検討するような手間はかけていられないだろう。 さらに、印刷所の側でも業界外との仕事には慣れてないこともあるため、 上手くコミュニケーションをとるのが難しい場合もある。 「予算がこのくらいで、ちょっと面白いことをしてみたいんだけど、 どんなことができるの?」という相談を受けてくれるような、開かれた窓口が少ないのが実状だ。 それとも関わってくる問題で、デザインから頼みたいという場合に、 印刷に詳しいデザイナーはそれほど多くない。先にも触れたように、 グラフィックなどを手掛けるデサイナーと印刷は分業が進んでしまい、 紙や印刷方法から提案することのできる(その機会が与えられる)デザイナーは限られている。 印刷所の中にデザイン部署がある場合もあるが、やはりこだわったデザインがしたいとなると難しい。 ……と、夢が遠のくような話をしてしまったけれど、 これらは私が「紙や印刷方法から相談を受け、印刷所の手配も含めてデザイン提案をする」窓口になろうと決意した理由なのである。 私自身、まだまだ奥の深い印刷の入口に立ったところだけれども「印刷所に相談が投げられる人」が間に入って、 上のような問題を緩和していくことで印刷業界の入口を広げていけるのではと思っている。 そして、長くなってきたので最後に私の夢をひとつ語らせてもらうと「印刷をくらしのなかのレクリエーションのひとつにしたい」のだ。 記念日に美味しいディナーを食べに行く、年に一度は海外旅行へ行くようなノリで、 日々のちょっとしたイベントのひとつに「印刷」という選択肢を取り入れてみたい。 そのための方法はまだまだこれから考えなければいけないけど、 この文章を最後まで読んでくれるような人が居たとすれば、希望はあるんじゃないだろうか。 これから自分が活動していく中で、様々な「印刷の在り方のデザイン」を考えている人が見つかることを願っている。

(2008.10.26 野口尚コ)
2008.10.28 Tuesday | - | 11:37 | comments(0) | trackbacks(0) |



花形装飾活字を愛でる その72

花形装飾活字において正しき版とは。 何を正しきとするかという表現が近いかもしれません。 ロケーションや可能性も含めて、 選択肢を自ら自ずと見出し、 その正解が正しき版であるとするべきです。 この場合の正しさとは可能性の一つを指します。 いろんな要素や目的を踏まえて導き出した正解の1つが、 アウトライン化というトレース作業にあって、 花形装飾活字からの可能性の現在における着地点という設定にもあって、 前提としての正しきではなく、 どの地点から汲み取るか選定した正しさの追求。 その正解は無数にあって、 そこからの1つが今回という訳です。 何よりも汲み取らなければいけないのは、 今回の場合というのはその汎用性であると思います。 現代の技術に沿わした汎用性はもちろんの事、 当時の花形装飾活字の特性を生かした汎用性の2つを考慮すべきです。 それらをキープしつつ、 その完成された美術的要素を生かす方法も配慮しなくてはいけません。 重要な事はシュミレートする際に、 重大なミスに気付くかどうかにあります。 ミスを修正する勇気こそが必要です。 また、 修正出来るタイミングの考慮を作業ベース以前にしておく事も、 工夫の1つやと思います。 最初の考えの修正は容易ではなく、 それが作業を進めれば進める程に実行する勇気の必要が出てきますが、 その完成度をあげるという意味では、 かならず修正はすべきです。 版の完成度とは、 この場合には複数の意味合いがあります。 個々のオブジェクトとしての完成度、 全体を見通した完成度、 最後に実際に組んだ際に発生する完成度です。 最後が一番重要です。 最初の2つも重要なのですが、 実際に組んだ時に違和感が発生するなんて時は、 「失敗」なので諦めて修正する事になります。 そうしていいところの着地点を見つける頃には、 げんなりして、 花形装飾活字の事なんて大嫌いになって、 思わずキー!!ってなって投げ出しそうになりますが、 そこをグッと堪える事で完成に至りますし、 気付けば限定的ではありますが、 花形装飾活字について言えば、 ほとんどマスターしてるってのなもんなのでした。
2008.10.24 Friday | 2008年10月 | 13:22 | comments(0) | trackbacks(0) |



花形装飾活字を愛でる その71

前回の続きからです。 印面を「彫る」という概念でシュミレートし、 それをアウトラインというシステムでどう再現するかについて前回書きました。 今回は、 それに基づいてどんな懐の元で実現したかを書いていきます。 ただし、 あくまで懐の話なので、 利用を制限するものではない事を予め伝えておきます。 印面を彫るという事は、 基本でありベーシックである底を、 物質に委ねるという事になります。 理論に委ねるのとの大きな違いは、 正しさの差異とでもいいましょうか。 両方とも間違っていないのです。 例えば、 当時は鉛だったでしょうか銀だったでしょうか、 おそらく銀だったでしょう。 デザインを設計し、 銀に対して彫る、または流し込むという概念を与える事で、 物質化し、 それを利用する事で活版は成り立ちます。 その場合、 印刷された紙面は、 彫られた版に依存する事になります。 その概念を採用するのが物質に委ねるという事なのでしょう。 理論に委ねるというのは、 設計部分のみを汲み取り、 まっさら綺麗な失敗の無い版をシュミレートするといったものです。 考え方としては他にもありそうですが、 大きく分けてこの2つになります。 そして今回。 今回のメインにドッシリ置いたのが物質に委ねるという事でした。 が、 当時の銀版や雛形を再現するのでしたら、 コンピュータではなく手彫りにこだわればいいのです。 それは今回の場合は違うのでしょう。 いかにコンピュータでの利用を促すかがテーマでもありますし、 その可能性の大きさを感じたからこそ、 この作業の始まりがある訳です。 出来れば到着点、着地点としては、 考えられる限りのものにするべきですし、 利用の幅を最大限に引き出せるような在り方が望ましいと考えました。 版の正しさよりも利用のロケーションや方法を選ばないものを目指しました。 単純に当時の銀版や雛形を手に入れるのは無理です。 かといって正確な印刷見本なんてそうそう出会えるもんじゃござんせん。 その中で発想としては、 紙面に刷られるインクの部分が全てであり、 そもそもの印面、もしくは彫られた印面もまたその要素であると考えたのです。 設計理論に沿った正しき版は正しき版として素晴らしいですが、 なんといっても、 今回の場合というのは、 正しさよりも利用の際のその再現性を目指す事にしました。 要素として印面もまた花形装飾活字の美しさの形成する1つでありますし、 印面をシュミレートする事によって、 そこから正しき設計への修正もまた可能であると気付いた事にあります。 つまり、 正しき設計はどうなのかというのは続く。
2008.10.17 Friday | 2008年10月 | 09:56 | comments(0) | trackbacks(0) |



花形装飾活字を愛でる その70

花形装飾活字をアウトライン化する、 トレースするという事について。 本来は、版を彫る、または雛形に流し込む(元は彫るか…)事で作成されるものを、 コンピュータ、 今回は限定的にアドビのイラストレーターというソフトを使って、 ベジェ曲線という当時は学生さんが考えた理論を使ってトレースを行いました。 現在の最新版のソフトにおいては、 画像のサンプルさえあれば、 機能としてのアウトライン化が可能であり、 トレース作業は自動的に、 完璧とまではいかないにしろ、 一時期的、 急場凌ぎには充分なクオリティを得る事が出来ます。 ただし画像のサンプルへの依存が前提となります。 その中で今回の場合は、 機能としてのアウトライン化は行わず、 あくまで1ポイントずつを策定し、 画像サンプルについても、 それを再現ではなく、 あくまで参考として扱いました。 実質的な期間としては8ヶ月かかりました。 まず、 これついては技術であって、 賛否両論あると思いますが、 それはひとまず置いといて、 今回行った作業としての結果を書いていきます。 サンプルについて。 サンプルは、 アイデア325号付録に収められた印字を使用しました。 サンプルとしては、 おそらく原寸ではなく、 サイズについても充分な大きさと質であったとは言い難いものでしたが、 個人が手に入れれる資料としては唯一のものであると感じました。 これについては、 今後有力な資料が見つかり次第それに伴った修正を加えていければと思います。 トレースの方向性について、 上記で記したように、 画像のサンプルとしては不十分でしたし、 ましてや、その雛形を手に入れるのは至難の業(というか無理)なのでしょう。 ですので、 作業としてはまず、 線を知らなければなりません。 版の欠けている部分、 左右対称である場合にはその平均を(決して同じではない)、 また、印圧による擦れや滲みについても考えなければならないと思います。 その元の印面をいかに想像しうるかが、 トレースの完成度を左右します。 そうしていく内に過去の失敗もまた露呈します。 それが意図であったかは定かではありませんが、 明らかな失敗はこちらでこっそり直してあげる事も可能です。 そしてトレースの方向性です。 いかにその線を紡いだとしても、 その想像しうる印面をそのままアウトライン化するのか、 理論として彫る上でのロスを無くすのか、 それか独自の視点で丁度良い着地点を見つけるか…。 これについては、 花形装飾活字をトレースする上で一番重要であり、 その作業者にとっての分かれ道のように思います。 今回について選択した着地点は、 いかに想像に徹した印面を生かすかということです。 花形装飾活字の美しさはその印面にこそあるというのは、 事前にその印面のロスを無くす方法でトレースをした際に気付いた点でもあり、 同時に印面そのもののロスは全てではないが意図されたものであったと、 気付いた事が大きいように思います。 これついては以前にどこかで書いたのでどこかに載ってるので、 興味がありましたら探してみてください。 という事で、 印面に配慮する事を着地点にしたのですが、 これついても、 実は意図があって、 最終の到着地点はやはり印刷にあります。 活版かオフセット、個人レベルでしたらインクジェットかレーザーでしょうか。 もしくは印画紙にも有りえるかもしれない。 これは全て三者三様ですが、 紙にインクが乗ります。 それがアナログかデジタルかは分かりませんが、 その最終である紙にインクが乗る瞬間は物理的であり、 技術的な差異はあるものの、 一定のランダム性、 印圧による擦れや滲みに似た現象が、 同じように起こりうるものであると考えているのです。 元はデジタルなデータであっても変わらないのです。 その発想を元とすれば、 トレースの方向性はおのず決まってきます。 それは、 「版」を作るという事を、 コンピュータ上で行うという事です。 これも以前に書きましたが、 モニターを介した紙面を完成とするのか、 紙にインクが乗った瞬間を完成とするのかでは、 大きなイマジネーションの違いが生じるという結論からのものです。 つまり、 印刷所にはグラフィックデザイナー不用論も、 ここからのものなのですが、 それは置いといて、 コンピュータは極上なシュミレート機です。 「再現」を行う上では天才的な能力を発揮します。 そのせいで、 コンピュータ上で行われている作業が現実であると、 錯覚してしまうのもまた事実であり、 実際に現在に使われているデザインソフトの多くは、 それを利用した仕組みになっているのは、 異論の余地のない現実であると言えるでしょう。 グラフィックデザインにて、 コンピュータを扱う上で何をシュミレートするか、 というのは大きな課題です。 その中で今回は、 花形装飾活字という選択肢の元、 その印面、 すなわち「版」をシュミレートする事にしたのです。 作業について。 作業は単純です。 トレースの方向性として「版」をシュミレートする事は決まっていましたから、 予めの解釈の中で想像しうる出来るだけの、 鑑識と知識を身体に染み込ませて、 後は「彫る」作業をコンピュータ上で行えばいいのです。 つまり8ヶ月かかった理由がここにあります。 本来、 線をなぞるだけなら2ヶ月、もしかしたら1ヶ月で終えれてたのでしょうが、 「彫る」訳ですから、 ポイント数にしてエゲツナイ数字になったのは、 思い出しただけで吐き気がします。 続く。
2008.10.15 Wednesday | 2008年10月 | 10:55 | comments(0) | trackbacks(0) |









最新のLOG